陳 述 書
原告 李鶴来(イー・ハンネ)
私たちは1942 年6 月朝鮮全土から、3.000 数百名の者が日本軍の捕虜監視員として強制徴用され、2
ヶ月間のきびしい軍事訓練を経て南方各地の捕虜収容所に配属になりました。
マレー、ジャワ、スマトラ、タイ捕虜収容所に配属になり、作戦遂行に必要な軍用道路、飛行場建設、鉄道建設に捕虜を使役し、管理業務に従事しました。
私はタイ捕虜収容所に配属になり、「戦場に架ける橋」で有名な泰面鉄道建設に従事しました。泰面鉄道はタイのノンブランドッグからビルマのタンビヤサヤまで41.5
㎞の鉄路でインパール作戦遂行に緊要な輸送路だったのです。
私は、1943 年2 月、仲間6 名と捕虜500 名を連れて150km
地点のヒントク分駐所で勤務しました。殆ど準備がないまま工事に突入したものですから、粗悪な衣食住、医薬品の欠乏、きびしい労働環境、朝早くから、夜遅くまでの重労働、加えて伝染病、赤痢、コレラが蔓延し、医療も休養も受けられないまま、多くの捕虜が犠牲になりました。
これらの問題が戦後、捕虜を虐待したとして、連合軍の軍事裁判に依り、仲間23
名が死刑、125名が有無期刑に処断されました。捕虜虐待の主なものは、施設が悪い、休養が悪い、医薬品が無い、重労働に加えて患者を就労させたというもので、いずれも軍属傭人の責任でないことは明らかであり、日本軍の捕虜政策の問題であります。
私はヒントクキャンプの管理責任を問われ、オーストラリアの捕虜9名から一度ならず二度も告訴され、当初は死刑の宣告を受け、8 ヶ月もの俎上生活後、20
年の減刑になり、現地刑務所で服役中、他の仲間たちと一緒に1951 年8 月スガモプリズンに移管され、1957 年4
月全員が釈放になりました。日本はもとより異国で親兄弟も知り合いもなく、全く生活基盤がない、あのきびしい社会に放り出されたのです。釈放後の生活は窮乏を極めました。
日本政府は私たちに戦中戦後を通じ、生命も青春も戦後処理をも、あらゆる犠牲を強要しながら、援護と補償は日本の国籍が無いから、いわゆる国籍条項により一切排除しているのです。あまりにも不条理ではありませんか。
1965 年日韓会談が妥結すると、今度は日韓会談で「一括解決済みである」と誠意がないのです。他方韓国政府は、BC
級戦犯問題は日韓会談の対象になっていないという見解です。
両政府の相異する見解で大変困りましたが、しかし、私たちBC 級戦犯問題は、日本政府が責任を持って対処しなければならない問題でありますので、鳩山内閣以来35
年間も歴代内閣に謝罪と補償を要請してきましたが、全く進展しないのです。
私たちも高齢化し、毎年他界してゆく現状に鑑み、運動方針を転換し、司法に公正な判断を仰ぐことにし、1991 年11 月12
日、条理に基き改めて日本政府に謝罪と補償を求め、東京地方裁判所へ提訴しました。地裁、高裁、最高裁まで、8
年有余の間、私たちが戦犯に問われた因果関係や日本政府の不当な処遇について法廷証言をし、訴えました。裁判所も私たちの境遇を認定しながら、本訴は棄却しましたが、付言判示は、この問題は国の立法政策の問題として立法措置を講じる必要性を促しているのです。
私たちは司法の付言判示を踏まえ、日本政府や国会の良識を期待し、結審から9
年近くも立法化運動を続けていますが、まだ実現していません。立法府は司法の見解を真摯に受け止め、早急に立法化措置を講じるべきです。現在、民主党が中心になって、5
月29 日、今通常国会に法案を提出し審議待ちしており、深く感銘しているところであります。
他方、韓国政府は2005 年、韓日会談当時の文書を一切公開しております。2006 年6 月には、BC級戦犯は強制動員の被害であることを認定しました。
その公開文書の中には、BC 級戦犯に関連する文書も発見しました。日韓会談の対象になっていないことは明確であり、日本側はBC
級戦犯問題は別個の問題として検討したいと答弁している記録があるのです。
韓日会談が妥結してから43 年も経過している今日、両国政府は問題を提起することもなく放置していることは、誠に遺憾であります。
日本政府は速やかに外交措置をとると共に文書を公開し事実関係を明らかにすべきです。
当事者の一人として文書公開を強く要請します。