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「nix in desertis」◆(2010年06月21日)江戸時代と米本位制
http://blog.livedoor.jp/dg_law/archives/51853833.html

【質問】 世界で最初にデリバティブを編み出したのは?


 【回答】
http://www.bk1.jp/review/0000052348
によれば大阪の堂島米会所だったという.
 ここでは欧米より約200年以上も前に世界最初の先物取引が編み出され,フューチャー、オプション、などといった凡そ現在世界で使われているデリバティブの全てが,この堂島で編み出され縦横に駆使されていたという.
 それが廃れたのは,市場の暴走を敵視する明治政府により大阪の米取引所が閉鎖されたためであり,そのせいで蓄積された高等取引の伝統のかなりの部分が失われた,と述べられている.

 詳しくは同書評を参照されたし.

【質問】 大坂商人と学問の発展とのかかわりについて教えられたし.


 【回答】
 さて、大坂の蘭学と言えば、緒方洪庵が有名ですが、18世紀後半の大坂にも坪井屋吉右衛門と言う造り酒屋が居ました。
 吉右衛門は北堀江に生まれ、長く町年寄を務めましたが、この人、又の名を木村蒹葭堂と言います。
 寧ろ、坪井屋吉右衛門より、木村蒹葭堂の方が通りが良いくらいです。
 この人、造り酒屋であり、町年寄でもあり、本草学者にして博物学者、蔵書家で古今東西の文物収集家、煎茶道に秀で、画を描き、詩文も作ると言う多方面で活躍した人でもありました。

 大坂を通る文人や学者で、木村蒹葭堂を素通りする人は居ないと言われるくらいに交友関係も広く、全国から彼の知識や文物を尋ねて人が往来しました。
 彼の収集は、大坂商人らしく、数寄物ではなく、全て有益な知識を得る源泉として活用したと言うところに特徴があります。

 そんな収集物の中から生まれたのが、『一角纂考』と言う書物です。
 一角と言うのは別名をウニコールと言い、解毒・万病薬として珍重された輸入薬の事。
 現在では、クジラ目イッカク科の海獣であるイッカクと言う生物の牙(と言うか角状に伸びた門歯)から作られている事が分っていますが、当時は学者達にも正体が分らず、あれこれ憶測されていました。
 木村蒹葭堂は、収集した書物を読み調べ、収集した洋書である『グリーンランド地理誌』にイッカクの確かな記述がある事を知り、しかもこれを鵜呑みにせず、実体験に基づく記述を見極め、これまでの一角説を批判して、その正体を確定したと言う実証主義的な手法を採っています。

 普通の蔵書家なら、単純に積ん読だけで終わらせ、かつ満足してしまいますが、木村蒹葭堂はそれを十二分に活用し、しかも学説を作り上げたところが凄い人ですねぇ…ああ、耳が痛いや。

 その木村蒹葭堂のコレクションの中には、当時未だ目新しかった顕微鏡がありました。
 その顕微鏡を、蒹葭堂の親友である服部永錫と言う人が見事に模造して評判となりました。

 この永錫という人も、実は商人で油屋吉右衛門と言い、薩摩島津家の蔵元を務める薩摩問屋でした。
 そんな身代の人ですから、普通は職人に作らせると思いきや、職人を指導して顕微鏡を作るのと同時に、職人が出来ない部分は自らの手で作り上げるほどの機械好きでした。

 で、その模造顕微鏡の噂を聞いたのが中井履軒と言う人。
 中井履軒は兄の中井竹山と共に、江戸中期を代表する儒者で、町人学問所懐徳堂を主宰していた人でもありますが、儒学者にも関わらず、西洋の文物や知識にも関心を寄せていました。
 そして、服部永錫に見せて貰った顕微鏡の見物記、『顕微鏡記』と言う書物を著わします。
 『顕微鏡記』には、履軒が初めて接しているにも関わらず、優れた観察力で顕微鏡の構造を正確に記述し、更に花粉や蠅、自分の髭などを実際に観察し、蠅の口や複眼の仕組みにまで考察を進めています。
 これも、顕微鏡の構造や観察記録をまとめた日本最古の文献でもあります。

 更に、履軒は、『越俎弄筆』と言う書物も書いています。
 これは、江戸期の天文暦学者である麻田剛立が行った解剖に、履軒が立ち会った記録を書いたもので、1773年、即ち、杉田玄白等が書いた『解体新書』の出る前年に書かれたものです。
 因みに、『越俎弄筆』と言う署名は、履軒が儒者の本分を越えて、医学の分野に立ち入って書いたと言う意味で、剛立の側で実際に解剖を見、東洋古来の医学書の間違いを正して内臓の働きを解説すると共に、彩色の人体解剖図まで書いています。

 その履軒と剛立の弟子の1人が山片蟠桃です。
 この人も、大名貸である升屋の大番頭で別名升屋久兵衛、商才を発揮すると共に、徹底した合理主義を貫き、百科全書的な大著である『夢ノ代』では、地動説をいち早く取り入れて壮大な宇宙論を説くと共に、地球以外にも生物が存在する可能性を指摘していたりします。
 また、記紀神話や仏教を批判して、無神論を展開すると言う、現在にも通じるアナーキーな人物でした。

 麻田剛立は、杵築藩医だったのですが、生来天文学が好きで、それが高じて遂に脱藩し、知人の竹山や履軒を頼って大坂に出て来ます。
 やがて本町4丁目に先事館を開き、天体実測による独自の研究を続け、医者としてよりも麻田流天文学を築き上げた人物です。
 1795年には、幕府の改暦事業に招かれたりもしますが、高齢を理由に断り、その代わり、高橋至時、間重富を推挙します。
 この高橋至時は大坂京橋口定番同心で、一応、武士身分ですが軽輩者であり、間重富は別名を十一屋五郎兵衛と言う質屋さんだったりします。
 高橋至時は理論の構築と計算能力に優れ、間重富は観測機器の考案や改良に卓越している、正に改暦にうってつけの人物でした。
 こうして、彼らの活躍により、より観測地の精度を高めた結果、見事に寛政暦を完成させています。

 19世紀に入ると、西洋科学書もぼちぼちと入ってくるようになり、その科学の優れた点が注目されました。
 しかし、それを解読するには原書を読む語学力が必要となります。
 北堀江で傘の紋書き職人をしていた橋本宗吉は、間重富や京坂に蘭医学を広めた小西元俊に見出され、江戸の蘭学者である大槻玄沢の下に留学します。
 橋本宗吉は間重富等の期待に違わず、入門後4ヶ月にして蘭語4万語を覚えると言う天才で、原書の翻訳を通じて重富を補助しただけでなく、自らも蘭医学や電気学を研究して、安堂寺町5丁目に絲漢堂を開いて、大坂蘭学の祖となりました。

 幕末期には有名な緒方洪庵が瓦町に適塾を開き、適塾はやがて過書町に移り、現在でも過書町改め北浜3丁目で公開されています。
 明治になって適塾は閉じられましたが、その適塾に関わりのある人々が、大阪初の病院である大阪仮病院の開設に参加しました。
 その大阪仮病院こそ、現在の阪大医学部に繋がっている訳です。

 こうして見ると、当時の商人はお金だけではなかったのですねぇ。
 それに引き替え今の上つ方は(以下愚痴になるので略。

(眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/03/17 23:18)

【質問】 江戸時代の大坂で,人々は遊興にどれくらいの金額を費やしていたのか?


 【回答】
 文政期の資料で,こうした経済効果を推察したものがあります.
 それによると,1年で大坂には,祭礼・参詣関係で銀2,300貫目,四季の行楽関係が銀1,000貫目,芝居・見世物が,前者は年間300日,見世物が年間100日として計算すると銀約2万貫目等々,大坂がこの種のイベントで得る経済効果は,合計凡そ銀2.4万貫目となります.
 これを銭1文約30円見当と換算すると,銀1貫目で300万円となりますから,単純に換算してこの種の経済効果は700億円に達する訳です.

 その集客の仕掛けは,寺社,行楽地,盛り場は元より,蔵屋敷,商家にもありました.

 大坂と言えば,何と言っても「天下の台所」の異名を取っている通り,大名諸家は自領の米や国産物を大坂に運び込み,それを売り捌く事で,自領の運営資金を賄っていました.
 この為に,それらの商品を保管する為の建物が必要で,大坂の中心部には,大名諸家の大坂藩邸,俗に言う,「蔵屋敷」が建てられる事になります.
 と言っても,教科書にある「蔵屋敷」は,経済活動の拠点とか蔵が建ち並んでいる倉庫街と言ったイメージしか思い浮かびません.
 しかし,其処には,特に西国諸侯達の蔵屋敷には,米蔵や駐在する武家長屋だけでなく,領主が参勤交代時に滞在する立派な御殿もあり,江戸中期頃には更に国元から著名な神社が勧請されていました.

 そうして,大体6月頃,それら諸国の蔵屋敷が一斉に開放されていました.
 開放されていたのは,長州,芸州,備前,備中,備後,出雲,阿波,肥前,筑後,立売堀下屋敷のみですが薩摩,柳川その他諸々の諸大名家です.
 これらの祭礼には,芝居,俄狂言,噺,物真似に造り物と言った催しが開催され,大坂の庶民達を楽しませています.

 例えば,佐賀鍋島家の「御屋敷稲荷社御祭」は6月17~18日に開催されました.
 祭礼の当日には表御門と浜御門が開放され,誰でも中に入って参拝する事が出来ました.
 その稲荷社には紋入りの紫の幕が張り巡らされ,神前には蔵役人ばかりでなく,御用町人に至るまでの供物が高く供えられました.
 両門から稲荷社に至る80mほどの通り道は,両側に人形などの造り物が並べられ,米会所東の間の10畳座敷には金屏風が立てられて,床には毛氈が敷き詰められ,祭り気分が盛り上げられています.
 夜でも,この祭礼は中断されることなく,両門に大提灯が明々と灯され,花火が上げられて,見物人で満ちあふれたと言われています.

 この様に,蔵屋敷の神社祭礼は一大イベントとして大坂の町人達に認識されていた訳です.
 大坂の町人達からすれば,大坂に居ながらにして諸国の有名神社仏閣に参拝出来る有難い催しでした.
 因みに,こうした蔵屋敷の祭礼で最も収益を上げたのは,中ノ島にあった讃岐松平家蔵屋敷の金比羅社で,これは航海守護の神様であり,海運関係の商人は元より,水の神であることから転じて火伏信仰とも相まって,一般庶民の参詣も集めました.
 特に,讃岐のそれは,大坂にも数多ある金比羅社の中でも,讃岐金比羅宮の国元である為,特に霊験灼かとされて,毎月9日と10日の祭礼日には人々が挙って参拝に訪れ,常安町通りまで夜店が出て,門前の通りは俗に金比羅町と呼ばれていました.

 金比羅の祭礼では,讃岐松平家の臨時収入は,1年で銭約4,000貫文に上りました.

 一方,既存の寺社も負けてはいません.

 先ず,1月の大坂と言えば正月10日の十日戎です.
 十日戎では賽銭の上がり高が銭1,800貫文,縁起物の笹を扱う宝市の売り上げが銭4,800貫文,料理屋の売り上げが銀250貫目など,総計は銭16,100貫文に銀650貫目に達します.
 これを銀立に換算して811貫目,先ほどの数値で換算すると,賽銭が約5,400万円,宝市の売り上げが1億4,400万円,料理屋の売り上げが約7億5,000万円で,十日戎の経済効果は総計で約25億円と言うものになります.
 因みに,1996年の今宮戎の賽銭は4,500万円,料理屋の売り上げが2億9,000万円ですから,当時としても,結構莫大な数値だったりします.

 そして,もうすぐですが,大坂の夏を彩るのが6月25日に行われる天満の天神祭です.
 京都の祇園祭でもそうですが,農村は農閑期の秋に祭りを行いますが,都市部では疫病退散が目的なので,夏祭りとなります.
 それはさておき,この経済効果も物凄い数値です.
 花火屋が金80両,惣色里揚げ代銀200貫目,御座船など2,500艘の船賃が銀120貫目,料理屋50軒分で銀25貫目,北新地の茶屋の銀100貫目などがあり,総計で,銭1,850貫文に,銀520貫目,金80両になります.
 これを銀立にすると銀543貫目に換算出来ますが,前日の宵宮分もほぼ同じ金額と推定すると,2日で銀1,000貫目,現在の金額に直すと約30億円程度になります.
 この数字,1995年に発表された天神祭の経済波及効果が低い方の数値で約60億円ですので,江戸期の信仰パワーが物凄いのが判ります.

 十日戎,天神祭だけでなく,大坂には様々な参詣,縁日,祭礼がありました.
 その数,年間300項目に達します…因みに京都は3,000項目あるそうですが….
 そして,この様な参詣や祭礼のネットワークを作り上げて,「霊場巡り」が仕立て上げられていました.
 以前取り上げた「七墓巡り」もその一つですが,1777年の『難波丸綱目』と言う本には,大坂には神社が,浪華地22社,神明社17社,天満宮25社などがあり,寺院では観音33所,阿弥陀48願所,薬師12所,弘法大師21所,弁財天7所,愛染明王26所など全部で26種類の巡礼パターンがあり,市中に網の目の様に,巡礼コースが張り巡らされていました.

 同じく,1770年代には摂津国内に範囲を広げた摂津八八カ所が拓かれています.
 しかしながら,四国八八カ所と違い,その巡礼コースは大坂城や両御堂,阿弥陀池に道頓堀と言った観光スポットも組み込まれていて,行楽的な意味合いもありました.

 更に,臨時に人々を集める仕掛けとして,主に修築費を集めるのを目的に,開帳が行われる様になりました.
 最初に開帳が行われたのは,1689年の四天王寺聖徳太子像開帳で,以後,住吉社,四天王寺,太融寺,和光寺,一心寺,坐摩社など毎年何処かで開帳が行われる様になります.

 ネタが尽きると,18世紀後半には,造り物の像に縁起をこじつけた「おどけ開帳」と言う物が表われます.
 1787年には,神明宮で,乾鮭の本体に乾鰒の袈裟を纏い,乾鮑の錫杖を持った「海中出現乾鮭地蔵尊」が評判を取りましたし,1791年の島之内八幡宮で開かれたおどけ開帳でも6文の檜料が合計15~16貫文に達し,その後も1日40貫余の上がりがあったと言います.

 これを見ると,宗教という厳粛な趣きを有り難がる人々にとっては噴飯物でしかないでしょうが,古くから大坂の人々のノリと言うのは変わっていないものなのだなぁ,と思いますね.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/06/20 19:37)

【質問】 江戸時代の大阪の農業について教えられたし.


 【回答】
さて、「京の着倒れ、大阪の食い倒れ」と言う言葉を耳にする事があります。
確かに、大阪は秀吉が大坂城を築いた後、商人の町として大発展しましたが、更にこの地は物資の集散地でもありました。

大坂近辺には、周辺に江戸と同じ様に地場産業として漁業が発展していました。
江戸前は小魚中心でしたが、大坂は鯛など柄の大きな物を切り身にして食べる事が多く、こうした魚は、瀬戸内海で獲ったものを、雑喉場に運び、それを市中へと流通させていきました。
一方、大阪湾岸でも、漁師が手漕ぎ船でタコやハモを採り、それを自ら横堀を遡上して売りに来たりもしていました。
泉南沖では、前にちらりと触れましたが、地曳のイワシ漁です。
これは食用と言うよりもどちらかと言えば生干しにして干鰯、つまり肥料として用いていました。

その干鰯を肥料として成長したのが、周辺の農業です。
主にこうした農地は河内地方にあり、台風が少なく、気候風土の穏やかな土地柄で育った、木津や難波の葱や干瓢、天王寺や平野の蕪や大根、住之江の薩摩芋、野崎の菜種、守口には大根、門真に蓮根、中河内は牛蒡などが栽培されて、これらは天満の青物市場に集められると共に、運河によって、生産地から船場や島之内の大商業地と結ばれていました。

農産物以外に重要なのが、それを調味する為の調味料ですが、竜野からは醤油、湯浅から味噌、赤穂やその他瀬戸内地方から塩が堂島に入ってきましたし、お茶は京都から良質な物が入り、お酒は伊丹や灘、それに池田から集まってきました。

その上、周辺地域の産物だけでなく、北前船航路や太平洋航路が集まっていた事から、全国から上質の農産物や海産物が集まって来ました。

そうなるとこうした品物を背景に美味い飯が出来るのは自明の理であり、大坂人は知らず知らずのうちに舌が肥えていたと言えます。

大坂の農業は、年貢米を作る農業ではなく、今で言う換金作物を作るものでした。
年貢米を作って、それを納めても二束三文にしかなりませんが、換金作物であればおぜぜが入ってきます。
特に、人の作らないものを作ると言う事で、1800年代初頭から、「野菜に四季の分かち無く…」、これは、障子に油紙を貼って、畝に杭を立ててそれで覆い、中で練炭を焚いて温度を上げると言う、現在の温室促成栽培とほぼ同じ事をしていました。

更に、大坂の畑は三毛作でした。
これは畑を年に3回も転作したもので、これには土地が相当肥えていなければなりませんが、その肥料は他地域の様に人糞を用いるのではなく、金肥を購入して使いました。
これが、泉州沖で獲れた干鰯ですが、1820年代には泉佐野、岸和田辺りで生産されていた干鰯が、漁獲量減少に伴い、生産量が大きく落ち込む様になります。
それに代わって登場したのが、北前船で運ばれた鰊滓で、以後、大坂の農業はこの鰊滓を肥料として発展してきました。

即ち、大坂の農業というのは、金肥を注ぎ込んで、三毛作を可能にする土地を作り、その地で換金作物を作り、それを売って得た金で米まで買うと言う、現代の農民と殆ど変わらない生産形態を取っていた訳です。

また、北前船は鰊以外にも、様々な蝦夷地や日本海側の物産を運んできました。

その筆頭は、現在でも大阪人の味覚を形作っている昆布です。
北前船航路が開拓されるまでは、日本海航路の終点は若狭でした。
若狭から入ってきた昆布は、若狭昆布と名付けられて陸路と湖路で京へ運ばれ、その地で京昆布になり、その一部が大坂に入ってくる程度に過ぎませんでした。
しかし、北前船航路の開拓は、昆布の大坂への大量荷揚げが可能となり、逆に大坂から京へ淀川を伝って昆布が運ばれる様になります。
昆布は、大坂で加工して全国に売られる他、出汁の材料として用いられる様になりました。

次に多く入ってきたのは鮭類で、干し鮭や塩引き鮭が多く大坂に持ち込まれていますし、海鼠や鱶鰭など俵物と呼ばれるものも北前船によって大坂に集められ、長崎に送り出されて清へ輸出されていきます。

大坂から送り出されるもので一番多いのは、地元では殆ど生産していない米です。
米は諸国から集められ、堂島の米市場を経て再び水路で各地に送り出されていきました。
次が、池田や灘、伊丹などで作られた酒、以下、菜種、木綿、紙、塩、鍋、包丁、針、糸、煙草、煙管、味噌、醤油、陶器、漆器などが扱われています。

時に、昆布が何故大坂人の舌を形作ったと言われるかというと、「旨味」の利用と関係有ります。
旨味というのは、その成分がアミノ酸であり、日本の料理文化はアミノ酸依存型です。
特に、そのアミノ酸の中でも代表的なものはグルタミン酸であり、これは動物性蛋白質には少なく、植物性蛋白質、殊に小麦や大豆に多く含まれています。
その小麦や大豆を用いて作るのが、味噌、醤油であり、これを用いた日本食の旨味文化の原点がこれになると言える訳です。

余談ながら、関西で用いられる薄口醤油と言うもの、色は薄いのですが塩分が多いものです。
塩味は旨味を含んだ出汁の中で良く伸びて上品な味になります。
その分、醤油を使う必要量は少なくなります。
尤も、これが醤油の使用量を節約すると言う始末屋関西人精神に合致したかどうかは何とも言えませんが…。

話を戻して、グルタミン酸を多く含む食品として、小麦や大豆以外のもので代表的なのは昆布です。
それなら、京都と似た様なものになるはずですが、京都の料理と言うのは煮炊きもの(烹る)が中心で、煮炊きに始まって煮炊きに終わるものです。
また、江戸の料理は、刺身文化に代表される様な切る(割く)料理が中心です。
では、大坂の料理と言うのは、江戸と京の両方を兼ね備えた料理であり、故にこれを「割烹」と言います。

京料理に使われる様な煮炊きもの料理のコツは、出汁を上手に引く事であり、此処にグルタミン酸を多く含む昆布が生きて来ます。
その上、グルタミン酸は鰹などの中に含まれるイノシン酸と一緒になると、複合して7倍の美味さに増幅する働きがあります。
江戸の出汁は鰹節を主体に、イノシン酸の旨味に頼っていますが、大坂は京と江戸の文化を取り入れ、昆布出汁と共に鰹節を用いて出汁を取る事を選びました。
加えて、大坂の近くには酒処が沢山あります。
酒に含まれる琥珀酸もグルタミン酸に混じると旨味を引立てる働きがあり、大坂の人は、昆布出汁に鰹節出汁を混ぜて更に酒…と言うか味醂を少量垂らすと言う非常に贅沢な出汁の作り方を学んでいったのです。

こうした大坂の味は、俗に「まったり」した味と呼ばれます。
京料理の場合は「はんなり」した味だそうです。
京料理は薄いものの塩が効いていてメリハリのきいた味ですが、まったりした味はきりっとしたものではない甘みを含んだ味です。

因みに、全国的に食べ物が美味しくなったのは、元禄期以降だそうです。
それ以前の料理を当時のレシピ通り作ってみても、現代人の舌には合わないとか。
まったりした味わいが出て来たのは、味醂を味付けに使う様になってからです。
味醂自体は、室町期から出現していましたが、その頃のものは酸味が強く、料理の味付けに用いられる様なものではありませんでした。
元禄期から技術開発によって、味醂が味付けに利用できるようになり、料理に使って味を引立てる様になりました。
この味醂の使い方も江戸、京、大坂で異なります。
江戸の甘辛は味醂や氷砂糖をたっぷり用います。
京の薄色は、薄口醤油や塩に酒を使い、味醂は使いません。
大坂のまったりは薄口醤油に味醂をそっと隠し味に用い、江戸の様にたっぷりと用いる事はない訳です。

これも始末の文化の一つと言えるのかも知れません。

(眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/03/12 21:56)

さて、大阪の味の話の続き。

大坂の人々の根底に流れているのは、京に倣って質素倹約です。
所謂、始末の文化。
捨てる様な食材でも、工夫して1品、2品と美味しいものを生み出すのを是とする事こそ、美学でもあります。
江戸(あくまでも江戸で現在の日本ではありません)の食文化では、例えば鯛を食べると言っても、それは焼き物で出すだけで、しかも、表の身だけ食べて裏の身は食べませんでした。
ひっくり返すのはタブーとされていたみたいですね。

しかし、京や大坂は裏の身は或いは刺身であったり、或いはあら炊きであったり、或いは潮汁であったりと、余すところ無く調理していきます。
また、大坂の旦那衆や御寮はんも決して食べる事に贅沢をしませんでした。
高級料亭と言うのは、あくまでも旦那衆が行う接待と商談の舞台装置であり、そこで食べると言う事を日常化させることは無かった訳です。
因みに、海魚の生け簀で泳いでいる魚を掬ってその場で調理する方式を考え出したのは、安土桃山の頃に京で鯉や鮎を使って行ったのが最初ですが、それを海魚に拡大したのは大坂です。
これは少しでもお客さんに喜んで貰おうとか、吃驚して貰おうと言ったサービス精神から出たものではないか、とされています。

ところで、良く「大阪は食い倒れ」と言われるのですが、実は江戸期にその言葉は無かったりします。
1855~1863年にかけて大坂町奉行を勤めていた久須美祐雋と言う人物は、見聞記『浪華の風』にこう書いています。
諺に京の着倒れ江戸の食い倒れといふ如く、浪速の地も京師と同様に衣類をば殊に貯ふる(後略)
つまり、大坂の人々は江戸の庶民みたいに「宵越しの銭は持たねぇ」とか、「初物は女房を質に入れてまで」と言う様な行為をする人はいないに等しく、ひたすら貯蓄して、良い着物を買うと言う事をやっていました。
と言っても、着飾る為に購入するのではなく、今の貴金属の様に、いざというときの換金用としてのもの、つまり、質草としての投資だった訳です。

よく考えると、今の大阪のおばちゃんもど派手なグッチやらシャネルやらを買っていますが、これは大阪人としてのDNAが為せる技なのかも知れません。

では食い倒れの語源とは何か?

これは諸説頻々で定まったものが無く、曰く、八百八橋と言われる程の大坂の橋には洪水が起きた後、五目(塵・芥の類)が橋の杭に引っかかって水の流れを塞ぎ止め、杭が倒れる事が多かった…つまり「杭倒れ」説。
その五目に近いものを徹頭徹尾食い尽くす事に通じるからと言う説、身銭を切って倒れた杭を何度も直している内に食うや食わずで衰弱死するからと言う説、逆に美味しいものを食べすぎて、商人がそれを追求しすぎた為に、身上を潰した説など様々にありますが、未だに確証はありません。
当時の大坂文化を代表する書物である、近松物、井原西鶴話にも出て来ません。

実際には、「大阪人の食い倒れ」が日本全国に浸透したのは比較的最近の事で、例の「道頓堀の食い倒れ」を、兵庫県香住の人である山田六郎氏が開店させてからだと言うのが、最も有力な説だったりします。

こうしたネーミングの妙さは、大阪商人の得意とするところで、古くは鰻の蒲焼きの頭部分を半助と言ってみたり、焼き豆腐をおやきと呼んでみたり。
そう言えば、関東で余り焼き豆腐を見たことがないような気がするのは気のせいか。
この半助とおやきを上品に煮た物が「うずら豆腐」。
中華料理の「打涮羊肉」の肉を牛肉に変えて、「しゃぶしゃぶ」と名を変えたのはスエヒロ。
大勢で食べる鍋焼きうどんがあってもええやないかと美々卯の店主が考え出したのが、「うどんすき」で、それを数寄な鍋物としたのは薩摩卯一と言う人で、茶事懐石を世界の名物に育てて海外に発信したのが湯木貞一と言う人、諸説有りますが、インスタントラーメンの発祥の地も、一応大阪ですね。

料亭と言えば、昨年話題になったのが吉兆ですが、江戸末期の時点では、天王寺の浮瀬(うかむせ)が最上の料亭であり、次が生玉の西照庵でした。
浮瀬は、料理は勿論の事、器や趣向立てが良く、接待の場として利用する旦那衆を喜ばせ、旦那自身も役者になりきれる事から流行ったそうです。
それを継いでいたのが吉兆だったのですが、残念な事になってしまいました。
因みに、大阪で現在でも続いている江戸末期からの料亭としては、上本町のとんぼが有名ですね。

いつかはこうした料亭で食べさせて貰える身になると、良いなぁ(無理。

(眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/03/16 21:37)

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最終更新:2010年09月04日 22:30