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【質問】 明治維新の際,それまで武士が商人から借りていた借金はどうなったの?
室町はともかく、鎌倉幕府も江戸幕府もその末期には上は幕閣から下は御家人まで借金まみれになっており、その経済的混乱が体制の崩壊の一因につながった、と認識しています。
さて体制が改まった後ですが、それらの借金はしっかりと清算されたのでしょうか?
たとえば「江戸幕府やなくなった藩の借金はすべて明治政府が同額で引き受ける」などといったかたちで。
それとも混乱のさなかでうやむやになり、商人達は踏み倒されてしまったのでしょうか?
【回答】
大名への借金が踏み倒されたことにより,大阪の両替商は軒並み没落.
各藩の外国からの借金は,日本の対外信用に係わるとして明治政府が代弁した.
大名貸し(藩債)
明治6年に定められた藩債引き受けの細則では
1843年以前の債務を帳消し。
1844~1867年の債務は無利子50年賦、
1868~1872年(明治元年以降の5年間)の債務は4分利子25年公債で償還。
藩債のほとんどが1843年以前から積上げられていたもので、それがすべて貸し倒れとなります。
特に新政府の中枢になった薩摩、土佐藩の債務は莫大なものでした。
それが「無かったこと」になったのです。
藩のカネを使いまくった(私用に流用した)藩首脳ほど、食い逃げして儲かる結果になりました。
さて、多額の「大名貸し」をしていた大坂の両替商にとっては最悪の事態です。
明治元年の「銀目停止(ぎんめちょうじ)」(関西で流通していた銀貨の取引停止)でも打撃を受けていた大坂の両替商は.これで息の根を止められます。
大手両替商の天王寺屋、加島屋、平野屋、升屋、炭屋、茨木屋、泉屋らが一斉に倒産しました。
これらは今でいう中小の銀行。
そして、それらは各藩からの商品の販売を扱った回船問屋でもありました.
中小の銀行が世の変化で倒産するのは当然の現象。
この「銀目停止→新通貨移行→藩債帳消し」の政令によって、大阪は日本経済の頂点から転落。
日本中のカネ(円)を中央政府に集中させ、政府首脳が食い物にする基盤が出来上がります。
新政府にとって、大阪に大資本が集中する構造はなんとしても転換しなければならない課題だったのでしょう。
一方で、徳川時代に外国貿易の担い手となった藩営事業(生糸輸出など。前橋藩や上田藩他)や各藩の所有船舶も,すべて政府に取り上げられることになります。
これがそのまま「政商」三井の手に渡るよう画策したのが,日本国郵便蒸気船事業です。
経済学的な捉え方をすると、太閤検地から延々と続いた米本位制が崩壊したということになり、「土地経済」から「貨幣経済」へ移行しました。
一方,江戸時代の豪商で,没落したってのはない.
みんな明治後の企業やコンツェルンにつながって大発展。
これらと渋沢栄一なんかの新興事業家との軋轢の経過は,現代日本産業史上著名な史実。
(渋沢栄一は,遂に前時代からの巨大商人達には勝てなかった=提携買収したのは皆中小と新興企業ばかり)
幕府から鑑札を受けていたいわゆる豪商は、江戸・京・大坂の商家全て新時代に巨大化。
そもそも、大名貸程度で元気の無くなる「豪商」なんか無かった。
入門書としては、駒敏郎著『江戸豪商の謎』祥伝社(昭和53年2月5日初版)に詳しい。
ちなみに「豪商」というのは、幕府から「大いなる商人(あきんど)」として鑑札を得ていた大店(おおたな)。
江戸、京、大坂に限られる――営業許可の鑑札ではない(そんなの幾らも有る)。
【質問】 「樽地」って何?
【回答】
「樽地」とは、課税が収益を上回る土地で、 松方デフレ時に、「樽地」が発生した。
保有すればマイナスなので、タダ以下の価格つまり、樽酒付きで、所有名義の書き換えを、資金にゆとりのある者に頼み込みに行った。
だから、「本間家」の様な大地主が出現したのです。
本間家の人が、以前テレビで言っていたが、皆、頼み込みに来たそうです。
※西南戦争による戦費調達で生じたインフレーションを解消しようとして、大蔵卿・松方正義が行ったデフレーション誘導の財政政策(1882~).
これらの政策は深刻なデフレーションを招いたため,「松方デフレ」と呼ばれて世論の反感を買うことになった.
【質問】 元秋田藩主・佐竹家はなぜ没落したのか?
【回答】
秋田藩の「忠臣」片野なる相場師が「殿の財産を倍にしてさしあげます」と持ちかけたのを鵜呑みにして、佐竹の殿様が全財産を片野に預けたため.
しかし,片野は京浜電鉄株買占めを目論むも失敗.
藩の財産を蕩尽した片野は責任を感じて割腹自殺したという。
【質問】 大原孫三郎って誰?
【回答】
大原孫三郎(おおはら まごさぶろう,1880~1943)は,岡山県倉敷市の富豪の生まれの実業家であり,大原美術館創設者.
父親の会社である倉敷紡績に入社した彼は,職工達が小学校さえ出ていないのに驚き,彼らのための教育機会を与えることに尽力.
明治39年に社長に就任すると,口入れ屋が従業員の手配,炊事の請負,日用雑貨の販売を仕切り,法外なピンはねを行っていた,当時の慣行である飯場制度を廃止し,また,果断な施策で倉敷紡績を全国規模の会社に成長させた.
【質問】 日本企業が日本陸軍のような組織上の病理に陥らないようにするには,どうすればいいのか?
詳しくは上記書評を参照されたし.
【質問】 第1次世界大戦時の三井物産シアトル支店長,石田礼助は「個人的蓄財には全く関心がなかった」のですか?
【回答】
http://www.bk1.jp/review/0000468744
によれば,城山三郎の悪いところは,小説の主人公を西郷南州ばりの「地位もいらずお金もいらず」みたいな人物像に「粉飾」することであって,事実とは異なるという.
なぜなら石田は,相場好き、ギャンブル好きからは生涯卒業できなかったからだという。
隠居しながらも彼は証券会社に電話し続け株で儲け続けたり,
経団連で財界の集まりがあって,ある会社の社長から,今度の有望な新規事業についての内訳話を聞いたりすると
「今の話ホントか」
と叫んでは席を立ち、公衆電話から証券会社に電話して,その会社の株を大量に買ったりしていたという(今ならインサイダー取引でしょ、これ)。
それに当時の三井物産の管理職の退職金は我々の想像を絶するもので、退職金で家が20軒買えて、それを貸家にして家賃で暮らしたという話もあるくらいだ.
まして物産の副社長まで上り詰めた石田は、ありあまる金を身にまとって老後を送っていたことは想像に難くないのである。
とも述べられている.
詳しくは同ページを参照されたし.
【質問】 1960年代までの日本の林業の主要輸出産品,ミズナラについて教えられたし.
【回答】
Japanese oakと言う種類の材があります.
これは北海道のミズナラの事で,開拓の為伐採されていた材は,当初薪炭材として用いられていました.
しかし,鉄道建設が進むにつれて,枕木として日本全国で用いられる様になりました.
日清戦争後,ロシアがシベリア鉄道や露清鉄道を建設する際に枕木を必要とした際,輸入先を北海道に求め,ミズナラ材は重要な輸出品となり,やがて米国にも輸出されました.
更に,需要を求める為に,これを扱っていた三井物産が英国に見本を送ったところ,これが良質なオーク材であることが認められ,欧州向けの輸出が増えました.
このミズナラは本物のオーク材に比べると安価だった為に,家具職人に好まれ,19世紀末のアンティーク家具の多くは,この材から作られていると言います.
以後,ミズナラのことをJapanese oakと呼び,1960年代までは日本の木材輸出総額の約20%を占めていました.
その後,価格競争に敗れて日本の林業は衰退してしまいましたが,現在でも国産ウィスキーの樽材にはこのミズナラを用いているそうです.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/01/31 22:15)
【質問】 世界恐慌前後の日本経済概史を教えてください.
【回答】
1927年3月,昭和金融恐慌発生.
1929年10月24日,ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落し,世界恐慌へ.
1930年1月11日,金解禁.
1931年7月,不況カルテル創造のため,重要産業統制法公布.
1931年12月,高橋是清,蔵相就任.積極財政支出政策.
1931年12月17日,金兌換停止
1932年8月,イギリス連邦,ブロック政策
1935年頃,赤字国債増発にともなうインフレ傾向が明確になり始める
1936年2月26日,二・二六事件により,高橋の公債漸減主義放棄
最終更新:2013年04月11日 20:31