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【質問】 日本が宋の銭を欲しがったってのは,一体どういう意味だったんだろうな?
貨幣経済の意味を,為政者がそろいも揃って,まったく理解していなかったんじゃないのか?
【回答】
古代日本では,新しい貨幣を発行するたびに,以前の貨幣の価値を切り下げた(いわばデノミを行った)ため,自国通貨に対して,信用がまったくなかった.
いくらお金を儲けて蓄えても,新たな通貨に切り替われば,その価値が下がってしまうので,民間商人はそれに対する自衛として,日本国内の権威の影響を受けない宋銭を,輸入して使うようになった.
一方,宋の商人にとっても,古い時代の銅銭は価値が下がっているが,その古い銅銭を,日本の比較的安い金と交換できて,美味しい商売ができる.
双方の利害が一致していたわけだ.
また,宋銭は当時の経済大国である宋の貨幣であり,対外取引でも用いることが出来た.
イメージ的には,現代のアメリカ・ドルに近い信用があった.
日本で公的な自国発行の銅貨が信用を取り戻すのは,江戸時代になってからで,それまでは宋銭,元銭,明銭が流通していた.
【質問】 近江商人の商売十訓を教えてください.
【回答】
1 商売は世のため,人のための奉仕にして,利益はその当然の報酬なり
2 店の大小よりも場所の良否,場所の良否よりも品の如何
3 売る前のお世辞より売った後の奉仕,これこそ永遠の客をつくる
4 資金の少なきを憂うなかれ,信用の足らざるを憂うべし
5 無理に売るな,客の好むものも売るな,客のためになるものを売れ
6 良きものを売るは善なり,良き品を広告して多く売ることはさらに善なり
7 紙一枚でも景品はお客を喜ばせばる,つけてあげるもののないとき笑顔を景品にせよ
8 正札を守れ,値引きは却って気持ちを悪くするくらいが落ちだ
9 今日の損益を常に考えよ,今日の損益を明らかにしないでは,寝につかぬ習慣にせよ
10 商売には好況,不況はない,いずれにしても儲けねばならぬ
【質問】 江戸時代におけるソロバンの生産体制は?
【回答】
算盤は,当初大津や堺,それに長崎で作られる様になりますが,19世紀に入るまでは,それこそ今のコンピュータと同じ様なもので,最初は専門家の為のものでした.
大津や雲州算盤は,珠作り,籤竹作りなど全ての部品生産を職人が行い,品質重視で一品生産するのを重視していました.
その販売は流通網を整備した訳でもなく,行商人による口コミ販売が主になります.
しかし,19世紀に入ると寺子屋の設立がブームとなり,一般庶民でも読み書き算盤を学ぶ様になると,それこそ,今のパソコン並に世間に普及することになります.
そうなると,元々専門家向けの少量生産品だった算盤も大量生産をしなければならなくなる訳です.
大坂の算盤問屋が目を付けたのは,大工がそれなりにいて木工が盛ん,更に大消費地である大坂近郊にあって,刃物生産を通じて算盤生産地の堺とも交流のある三木とその周辺でした.
播州の場合は,大津や雲州と違って,問屋が珠と台師が作った枠組み,所謂台を買い入れ,問屋側の仕立て職人が組み立てて仕上げると言う分業体制を取っていました.
この場合,枠の材料と籤竹の調達は台師に任せられています.
台師の暖簾分けには,分家元から算盤の枠に使う良い材質の樫の原木を大量に貰うと言った事もあったそうです.
また,彼らの道具には,算盤枠に穴の位置を一度で等間隔に付けられる「針型」と言うものが残されていますが,それには「大津型」「広島型」「相型」と言う産地名の入ったものがあります.
つまり,大坂の問屋からの注文に応じて,三木で他産地の算盤を作っていた訳です.
これらは今で言うノーブランド品で,三木から大坂に送られ,そこから各地へと大津や雲州,広島などのブランドを付けて販売されていったと考えられます.
この分業生産体制を武器にして,播州に於ける算盤製造では,三木の地盤は盤石でした.
算盤問屋の営業特権は強固で,三木以外の新規開業は不可能でしたし,この地を領していた明石松平家も彼らを保護していました.
ところが,1841年12月に発せられた天保の改革により,全ての問屋仲間・組合の解散と仲間以外の一般商人の自由売買を認めることになり,大坂の問屋や三木の仲間組織が崩壊した為,他地域からの参入も自由になります.
小野の商人で算盤製造に参入しようとしていた黒川屋井上太兵衛はこの機会を逃さず,三木に集住していた珠屋や台師を少しずつ引き抜き,小野でも算盤作りがスタートしました.
小野は外様大名である一柳家の領地であり,奉行役にもこうした新規参入を認めて欲しいと言う陳情が為されています.
尤も,実際には1830年代には既に三木の下請けとして一部の分業が行われていた様ですが.
一方,三木にとっても小野の参入は実は渡りに船でした.
と言うのも,既に先行していた金物生産が軌道に乗り,近畿一円は疎か,黒田清右衛門商店が江戸で大繁盛するなど販売網は全国に広がっていきました.
当然,この事は三木での金物生産の増加を招きます.
そうなると,従来金物と算盤の二頭立てでやって来た商人にとって見ると,ブランド力もあり,利幅の大きな金物へと経営資源を集中することになり,算盤を作っていた人々も金物生産へとシフトします.
そして,算盤生産業は衰退していき,明治維新で問屋の特権が全て消滅して自由に算盤作りが出来る様になると,問屋も消滅すると共に,金物屋の扱い商品からも消えてしまい,その代わりに小野が伸してくることになる訳です.
時に,算盤作りの中で最も難しい技術となっているのが,木珠加工です.
枠は見よう見まねでも作れますが,珠に関しては材料を回転させ均一に作る轆轤の技術がないと不可能です.
これを実現していたのは,大津の場合は紡績用の木製の小さな小車の轆轤製造をしていた人々です.
小車は,綿や麻糸を紡車に掛けて回転させる時に使う滑車で,大きさは大豆大から大きくても直径3cmほどの木工製品です.
珠作りとは共通する点も多く,近畿各地や北陸一円へと販売されていました.
三木の場合は,近くの有馬に木地師の集団がおり,彼らが腕を振ったのではないかと考えられています.
有馬の木地師は,湯の山引き,或いは有馬引き物と言われる轆轤を使った木椀を作成し,温泉を訪れる湯治客の土産物として売り,生計を立てていました.
彼らは江戸幕府が成立し,豊臣家が滅んだ江戸初期には有馬に定住して,こうした生計を立てています.
しかし,19世紀に入ると直ぐに消息が絶えてしまいました.
丁度その頃に三木に於いて算盤製造が本格化しています.
有馬は温泉地であることから人の往来も活発であり,大坂など経済先進地の情報も逸速く入って来ていました.
そして,木地師の長も,三木が算盤の生産をするのに,轆轤の技術を有している有馬の木地師が必要だと思ったのかも知れません.
そこに大坂の問屋が介在したことも考えられますが,木地師達は有馬から原木が容易に入手出来る三木の東部に移り,そこで柊や福良木を材料に珠の生産に乗り出したと思われます.
当初は三木東部でこうした珠作りを行っていましたが,安定成長が続き,周辺地域に業者が増えていくと,小野に進出し,安政期には小野の北部でも珠作りが始まっていました.
こうして,算盤作りの歴史を見ていくと,何かこう,現在のユニクロやらその辺の会社と余り変わらない物作りのやり方なんだなぁ,と思ってしまいます.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/12/12 21:25)
【質問】 江戸時代の促成栽培方法について教えられたし.
【回答】
現在でも生ゴミからコンポストを作り出す機械が大層な値段で売られています。
この前、某家電量販店で見た時には一番安いので5万円弱、高い物になると9万円弱もしました。
それにはゴミ減量の補助金がうちのCommunityの場合は2万円ほど出るので、実質負担額は一番安いもので3万円ほどになります。
これなら、手を出せるお値段ですかね。
江戸期から、江戸深川の砂村(今の江東区)では、こうしたゴミの堆肥化の際に出る熱を利用して促成栽培を行っていたりします。
砂村の促成栽培は、『東京府下農事要覧』によれば、以下の様なもの。
先ず、温床本体は、ゴミに水を掛けて積み重ね、高さ60cmぐらいにして堅く踏み付け平にした上に、昨年使用したゴミの細かくなったものを積み、その周囲を板と藁や莚で囲み、上部を雨障子で覆います。
雨障子と言うのは、油を引いた和紙を継ぎ合わせたもので、イメージ的には正にビニールハウスみたいなものです。
その油紙に用いたのは質が悪い漉き返しの再生紙で、落し紙に使われることで有名な浅草紙で、ゴミは魚河岸から出る魚の臓物などの生ゴミを用いたりしていました。
温床の外囲いには四方に各々高さ3m程度の葦簀を巡らして、日光や風の強弱に応じ、柱の上部に付けた滑車と縄でそれらを昇降出来る様にします。
更に、夜間の冷却を防ぐ為、夕方から翌朝までは障子の上に莚を二重で覆う様にしていました。
当時は勿論温度計などはありませんから、温度管理は非常に難しく、床面から出る水蒸気の加減を見て、内部温度の調整を行いました。
この温度調整は、「一生の習業」とされていたものだったそうです。
こうして結構な手間を掛けて造りあげた温床ですが、熱が発生する期間は大体20日前後しか無く、発熱が完了する迄に次の温床を用意して、完了すると即座に移植するなど手間の掛かるものでした。
これで作られた作物は、茄子、胡瓜、隠元豆などですが、茄子の場合は12月に播種して5月上旬出荷、胡瓜や隠元豆では同時期に播種して3月にはもう出荷出来ています。
季節感がない、昔が良かったと言う人もいますが、昔もこんな事をしていた訳です。
この促成栽培は、近代になるとゴミに代わって藁に人糞を撒いたり、馬糞や馬の寝藁なども用いられていました。
こうすることで、温床の発熱は55度でその発熱期間も1週間から10日、更に温度が下がっても30度が1ヶ月以上続くので、江戸期よりは格段に移植回数が減ることになります。
この方法は、数十年前まででも23区内で良く行われたものだそうですが、現在では「踏込み温床」と呼んで、有機農法を志向する農家に良く用いられる手法です。
流石に雨障子はプラフィルムに変わっていますし、発熱体はゴミではなく、広葉樹の落ち葉、籾殻、糠、藁、牛小屋の敷藁や籾殻になっていますが…。
促成栽培の手法で最も古いのは京都の御牧村(今の久御山町)に残っていたもので、1440年頃に上津屋(今の城陽市)の栽培を見習い始めたものとされ、「淀苗」として全国に売られていました。
こちらは、同じ様なものですが、雨障子の油紙は、古本屋から買入れた本を解いて、その和紙で障子を作り、その上に油を塗りかけたり、渋紙を使ったとも言われています。
また、静岡三保にあった折戸村の名主、柴田家では、慶長年間から旧暦五月の節句に駿府城の家康に茄子百籠などを献上して、家康薨去後も、江戸への献上を続けることになり、これが駿河名物「一富士二鷹三茄子」として有名になりました。
後者に関しては、温暖な気候に助けられた促成栽培ですが、1680年頃の三河・遠江地方に伝わる農民の技術・知識の集大成である『百姓伝記』に依れば、「種を…いろりの近くに於いて芽を出させる。芽が出たら…移植し、微温火を置く」と燃料を使う様に記述していましたが、芽独活や三つ葉芹については、「秋の末早く…土を被せ、塵芥を被せ置くべし」とゴミの発酵熱を利用する事が記述されていたので、場合によってはこの発酵熱を利用したのかも知れません。
砂村での栽培事始めに関しては、1660年頃に吉野(或いは青木とも)久三が京見物をした際にその手法を学んで帰ったとか、1779~1800年の寛政年間に砂村中田新田の松本久四郎が発明したとの説もあり、一定していないようです。
ただ、1830年の『嬉遊笑覧』と言う書物には、「そのかみ駿河より五月出すを初なすとす。今は年の寒暖に関わらず、三月に砂村より出るなり」とある様に、結構有名なものだった様です。
ただ、幕府に取ってみれば、こうした庶民の初物に対する執着は、生産に対するエネルギーの無駄遣いと映った様で、17世紀後半頃から屡々抑制しています。
特に厳しかったのが、1842年に出された天保の改革の禁令で、これには、「きゅうり、なす、いんげん、ささげの類、その他…、雨障子を掛け、芥にて仕立て、或いは室の内へ炭団火を用い、養ひ立て、年中時候外れに売り出し候段、…ふらちの至り」と書かれていました。
この頃には、生塵だけでなく、厩肥や糠の使用など、各地で促成栽培の為に様々な工夫を行っていました。
砂村ではこの禁令に触れて、手鎖20日の処罰を受けた者もいました…が、この禁令の最後にこうありました。
「但し、…前々より献上の類は、ただ今までの通り相心得る可く候」
つまり、駿河の献上茄子は将軍家への献上なのでこの限りにあらずと言う訳です。
勿論、庶民の方でも、この辺抜かりありません。
ちゃんと抜け道を作って技術を維持しておき、水野忠邦が失脚すると即座に息を吹き返しています。
ふと思います。
庶民の側も今年は強かに生きるのが必要なのでしょうね。
【質問】 江戸時代の物価は,微妙に上がっていきますよね? これは何故ですか?
【回答】
江戸時代には両替商と言う存在があるのは知ってるよね?
江戸時代は東日本が金本位,西日本が銀本位の貨幣経済だったから,こういう商売が必要だった.
ただ,一国に二つの貨幣基準があると煩雑であるし,両貨幣経済圏を「貿易」として考えると,基本的に東日本は常に輸入超過の赤字だった.
これは幕府にとって悩みのタネで,荻原重秀は貨幣改鋳によって市場に流通する小判の絶対量を増やすことで,相対的に銀の価値を下げる必要性もあった.
実際に宝永の改鋳では,品位の異なる4種類の銀貨が発行され,銀建ての価格体系が複雑となった結果,銀貨の価値が低下して,東日本の貿易赤字が軽減された.
荻原の政策はインフレを招き,物価を上げて「銀貨の」貨幣価値は下げたが,相対的には銀貨に対する金貨の価値を上げた.
もちろん,物価上昇で金貨の価値そのものは下がっているので,結局は「物価が上がる=貨幣価値が下がる」と言うことなんだが(笑
当時の日本に二つの経済圏があったから,そういう意味では微妙なんだと思う.
【質問】 東日本の輸入超過を,幕府は悩まないだろ.
幕府の赤字を悩むだけでないの?
江戸は武家屋敷都市だったから,赤字は当然では?
【回答】
米相場を西日本(大坂)がコントロールしていたのをお忘れ?
金の価値が銀に対して相対的に下がると,米による決済もまた実利が下がる.
江戸時代は幕府も大名も,極端な米依存型経済だった.
幕府の赤字と,輸入超過による貿易赤字は,表裏一体.
友禅や絞に代表される高級な衣服をはじめ,下り物と呼ばれる酒の膨大な消費による輸入超過に頭を悩ませた吉宗は,栃木や茨城など江戸の周辺地域に,酒造りを奨励したぐらい.
【質問】 西日本の物価の上昇は,東日本に比べて大きかったんでしょうか?
ありがとうございます.
銀貨に対する金貨の価値は上がったけれど,金貨自体の価値も低下していたということですよね?
そうすると,西日本の物価の上昇は,東日本に比べて大きかったんでしょうか?
【回答】
一概には言えない.
荻原の貨幣流通量増大策は,結果的に好景気をもたらしたが,同時にインフレ経済でもあった.
日本で言えばバブルの頃のような感じ.
んで,その後を継いだ新井白石は,荻原大嫌いだったから,貨幣改鋳でデフレ経済になった.
物価が上がっていても,好景気で金の還流が活発なら,さほど問題ではないし,物価がどんどん下がっていても,消費が冷え込んでいては,それもあまり意味がないのといっしょ.
庶民の細々した物の物価上昇で,軽々には言えない.
「物価が上がったので庶民は苦しんだ」というのは,単純すぎる説明モデル.
ただ,物流の中心地であった関西は,品物の不足による高騰が,江戸よりも少なかったとは言えるかもね.
また,堂島の米相場で,世界初の先物取り引きが行われたのも,投機的な意味合いよりも,相場の高騰・下落によるリスク回避の意味合いが大きかった.
江戸では大岡越前が,何度も商人を呼びつけて価格引き下げを命じたし,時には牢屋にぶち込んだり強硬手段を用いているが,なかなか物価をコントロールできなかった.
【反論】 吉宗=大岡越前ラインは,改革の末期に,悪貨鋳造=インフレ政策に変更した. なぜ前期にこだわるの?
堂島は資本主義的ではなかったので,明治に対応できず初期に廃止された.
物価は流通の問題だから,売り惜しみすれば上昇し品不足となる.
天保では大阪市中で,餓死者が大量に出た.
物価上昇・生活貧窮・飢饉は,ある意味で都市の問題.
【再反論】
別に前期にはこだわっていない.
通史として言及すると,経済政策は時期によって,方策がコロコロ変わって煩雑になるので,説明し易い前期に絞っただけ.
吉宗のインフレ経済政策は,その時点では効力を発揮せず,田沼意次の重商主義経済の時代まで待たなくてはならない.
ついでに言わせてもらうと,堂島が廃止された事と,物価の上昇と何の因果関係がある?
吉宗が後期,十組問屋を特権化することで物価コントロールしようとした事と絡めて,問屋の物価上に与えた影響を説明するならともかく,「堂島は廃止された」だけでは,初心者への質問への回答としては,要領を得ないと思うが.
廃止された背景も含めて,物価との因果関係をきちんと説明すべき.
吉宗はインフレ政策に転換したと言うのも,米公方と言われるほど米価の安定に心を砕き,大岡を使って強硬手段にも出たが,商人たちが幕閣に取り入って,大岡のやり方に圧力をかけ,結果的に商人を放免せざるを得なくなり,ついには大岡は寺社奉行へ昇格という名の左遷をくらったため.
吉宗自体はそういった政策失敗から,問屋による一種の統制経済に転換した事を無視して,「インフレ政策に変更した」では,明治期に問屋や堂島が順次廃止された理由が分からないでしょ?
「吉宗以降,一種の統制経済で資本主義的ではなかったので,明治に対応できず初期に廃止された」
ぐらいは言わないと.
天保の餓死は,江戸への廻米を優先した結果であって,流通の問題というより,政策の問題.
【質問】 1736年の文字銀改鋳について教えられたし.
【回答】
さて,1736年5月,幕府は財政難から正徳銀に換えて新たに文字銀を鋳造する事になりました.
この文字銀の品位は銀位46%と,今まで発行していた正徳銀の80%に比べるとかなり劣った銀貨でしたが,通用に際しては品位の異なる2品を等価通用とし,銀座において正徳銀を文字銀に引き替える際には5割の増歩を認めましたが,正徳銀の品位と文字銀のそれとの品位について必ずしも等価交換ではありません.
正徳銀位80%÷文字銀位46%=1.73913になるので,本来は7割3分9厘余増しで等価になるはずです.
従って,幕府の設定した交換比率1.5と比べると,実質2割3分9厘余も低く設定されていました.
石見銀山でも,この動きを受けて,文字銀の銀位変更に伴う灰吹銀引替歩合の変更が,山師達を通じて幕府に願い出られました.
先に見たように,灰吹銀の銀品位とその当時の通用銀の銀品位が等価になるように設定していますから,その要求は正当なものです.
山師達の要求額は,正徳銀と文字銀の引替が5割増となっているので,銀山のける灰吹銀の引替歩合もこれと同様に,正徳引替歩合1割9分の5割増,即ち7歩8分5厘の変更を願い出ていました.
当初,幕府はこれを認めず,正徳銀の引替歩合の据え置きを指示していましたが,その後2カ年限りと言う条件で3割5分の増歩を認め,この結果,灰吹銀と文字銀との引替割合は5割4分で決着しました.
但し先に見たように,元々文字銀との引替歩合5割増は必ずしも等価では無かったのに,銀山では更にそれよりも低い3割5分増で歩合が設定されました.
灰吹銀引替歩合は,実際には幕府の産銀買上価格ですから,こうした歩合の引き下げは実質的な価格低下を意味し,鉱山経営に更に打撃を与えた事になります.
こうした状況は,1736年から1760年までの実に24年間続き,1745年には更に4分の引き下げが行われている状態だったので,益々鉱山経営は困窮の度を増していきました.
しかも,この頃の鉱山で生産された灰吹銀の銀位は酷く,品質が低下していました.
例えば1836年,銀座に納品した灰吹銀は都合65貫目でしたが,銀座で位改め,つまり,品位検査を実施した時に,先の銀60貫目の銀位は平均1歩6入になっています.
銀山から幕府に納品する銀の品位は,契約上7歩36入ですから,この年の灰吹銀は規定の銀位より5歩76入も劣っている事になります.
となると,これは量はあるけれども品質が粗悪な銀と言う事になり,その差額を銀山側から足灰吹銀として補填しなければならず,最終的に灰吹銀3貫692匁4分9毛を差額として上納しています.
この補填は銀吹師からの出銀によって賄われるものですから,鉱石が粗鉱化すると,生産量減少だけでなく,上納銀の増加にも繋がり,銀吹師の手許に残る銀は少なくなり,銀吹師に負担がのし掛かってくる事になりました.
その灰吹銀が足りなければ,代官所からの借銀で賄う訳です.
当然,この借銀は銀吹師の負債となるので,これも鉱山経営を圧迫する要因でした.
ところで,この貨幣改鋳で何が起きたかと言えば,幕府は品位の劣った文字銀を,正徳銀と等価で通用させようとしました.
ところが江戸期は大判,小判,丁銀,銭の4本立て,まぁ,大判は滅多に通用するものではなかったので,実質3盆立ての複雑な計算を行っていました.
この為,金貨や銀貨,それに銭貨の交換市場が成り立っており,市場では低品位通貨を嫌って忽ち銭貨の高騰を招きました.
謂わば,国内で現在の為替相場に近い動きがあった訳です.
この辺は相当以前にも触れていますが,1736年正月の江戸相場では金1両に対し正徳銀57匁30歩,銭では4貫350文でしたが,1737年になると,金1両につき文字銀51匁1歩,銭では2貫860文となっています.
文字銀に対して,銭は著しく高騰してしまいました.
特に銭の高騰で銀安銭高の状態になると,困るのは庶民です.
また,山師や銀吹師も非常に困った事になります.
彼らが必要とする薪炭材や鉄道具など,更に工賃と言った生産コストは名目上銀勘定となっているものの,実質的には銭建てで支払われていた為,その高騰は更に収支を圧迫しました.
例えば,1737~39年の記録では,灰吹銀1年当りの平均出荷高は125貫240匁となっていました.
これを正徳銀で丁銀換算すると,1割9分ですから149貫39匁6分になり,文字銀なら5割4分になるので,192貫869匁6分になります.
一見すると,文字銀の場合は受け取りが多く,収入が多く見えますが,これは数字のマジック.
支払いに用いる銭に換算した場合,正徳銀なら1匁に付き銭80文なので,先の数字を銭換算すると11,922貫848文になりますが,文字銀は銀1匁に付き銭40文にしかならないので,銭換算したら7,714貫784文にしかなりません.
これで,一般支払いを済ませなければならないので,文字銀の受け取りが収入の増加に繋がらない事が,よく分ります.
この様に,貨幣改鋳により,鉱山経営は急激な衰退を招き,これにより銀山町は著しく疲弊してしまいました.
この為,幕府側も事此処に至っては重い腰を上げざるを得なくなり,鉱山経営の立て直しと,飢人まで出現するに至った稼人救済の為,「御救拝借」と呼ばれる拝借銀を銀240貫目貸付けます.
この240貫目の内,100貫目については石見国の天領の村々に,残りを備後国の天領の村々に貸し付けました.
当然利息が付いており,年利は1割5分とし,最初の7カ年は利銀36貫目を全て鉱山資本に充て,8年目からは利銀36貫目の内24貫目を幕府への返済に,残りを鉱山資本に充当する事になりました.
この貸付は,1742年から実施され,3年間は利銀の返済も順調に行われていましたが,備後国の方ではそれでも返済が滞るようになり,1752年に至ると,時の代官天野助次郎が「家財取上ケ売払候」として村々からの滞利銀を整理して更に個人に対して「村方引請」として元利銀の返済を備後国の村々に命じました.
それでも,凶作で立て直しが叶わず,1764年になると遂に元利が199貫178匁に達してしまいます.
一方の石見国の方は利銀の滞りもなく順調に返納され,代官から幕府に対する償還も石見国分の利銀が充当されました.
その結果,1750年から1786年の20年賦で返済しうる事が出来,余剰金を利用して継続的な貸付が実施出来るようになり,その後,民間資本に代って代官所が行う鉱山開発の重要な資本になったりします.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/08/21 22:27)
最終更新:2013年04月10日 01:39