缶コーヒー

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 手に持った缶コーヒーは少し熱かった。もう冬は遠い季節になっていたから、体の芯から温まるような暖かさは必要無かった。
しかし一度要求したものは断固として受け取る主義の彼女に碇シンジは逆らえない。もうしばらく待てば街に辿りつけるのだが、
彼女の我侭は今に始まったことではない。
 幸い山間のレストハウスに自動販売機があったから、シンジは少しだけ春風に吹かれるだけで済んだ。彼女にはパイプを銜えた
おじさんのロゴマークが特徴的な缶珈琲の砂糖味。自分は眠気覚ましにと同じ珈琲のブラック。春風から身を守るように
真っ白なジャケットを体に巻きつけ、アスカの珈琲缶を手で包み込むように持つ。猫舌の彼女は熱い液体を好む日本人が
飲むように合わせたコーヒーの温度を嫌がる。仕方ないので熱さを我慢してシンジは手で熱を珈琲から奪う。
 急いで駐車場に戻る。彼女は待つことに対して寛大な女性では無い。シンジと彼女との付き合いは長いが、その中で
彼女がシンジを大人しく待っていてくれた時は数えるほどしか無い。彼女曰く、
「アタシは一番大事な事はずっと待っていてあげてるんだから」、とのことだが、シンジには何のことだかわからない。
そんなわけでシンジは慌てながら妻の下へ駆け戻っていった。

案の定、妻は腕組みでまなじりを吊り上げ、不機嫌さを隠す事なく
「遅い」と言ってよこした。
もう慣れた。
それは達観や諦観ではなく、彼女がそういう人間だと知り、単に受け入れただけのことだ。
そうなって、もう随分になる。
だからこそ、彼女と共に歩く人生を選び、選ぶ事ができた。
「ごめんね」
と言って缶を放る。
最小限の動作で片手を振ってそれを受け止めると、彼女はプルタブに指をかけ、
…そのまま腕を下ろした。
横に来い、と言っているのだ。
彼女がそういう人間だとは知ってはいるが、どうしても苦笑してしまう。
今更隠しても仕方が無い、漏れだす笑みをたたえたまま、彼女の隣に並ぶと、
つんとそっぽを向いたまま、やっと缶にかけた指を引く。
狙った訳でもないのに、まったく同じタイミングで、僕と妻、二人の缶の口が
カシュンとガスの抜ける音を立てる。
妻は相変わらずむくれたままだが、珈琲の甘さのおかげか、幾らか表情を和らげて、
ほう、と安らいだ息をつく。
何の気なしに「美味しい?」と聞いた。
彼女はぼつりと、ただ甘いだけよと答えた。
なら良かったと、僕は言った。
彼女は何か言いたげにしばらくの間、あーともうーともつかない唸り声を上げていたが、
やがて僕の肩に頭を落として、そのまま猫の様に固まってしまった。
「甘いわ」
彼女が言う。
なら、良かった。
僕は思った。
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