季節は春。
外では藤やハナミズキがたくさんの花をつけ、ツツジも色とりどりに咲き誇っている。その色彩に合わせるかのような新緑のコントラストが、第三新東京市を綺麗に彩る。夕方ともなれば、頬を撫で通りすぎてゆく柔らかなそよ風がとても心地よい。そんな春の麗らかな陽気とは裏腹に。
――カチャン、カチャカチャ…食卓の上には季節物の料理が並べられている。筍ご飯に独活の酢の物、タラの芽の天麩羅にカツオのたたきのサラダ。どれも、とても美味しそうだ。しかし、ここ数日の碇家の夕食の風景は、いつもとは少し様子が違っていた。ダイニングキッチンには箸や食器類のたてる音のみが響いている。夫婦の間に会話は全くない。愛娘のミライは困り顔で二人の顔色を交互に伺っている。
「ミライ、パパにお醤油持ってくるように言って」「パパ、ママがお醤油持ってきてだって…」「ミライ、ママに自分で持ってくるようにって伝えて」「…だってさ、ママ」
こんな調子のやり取りが続いて三日が経過しようとしていた。何故、二人は喧嘩しているのだろうか?夫婦喧嘩の発端は、実に些細なことであった。
三日前の夜。「あ~、いい湯だったなぁ。…あれ?テーブルにおいてあったケーキは!?」お風呂からあがって、リビングでくつろごうとしていたシンジが叫ぶ。「ん?どうしたの、シンジ?」シンジ同様に、お風呂上りで素肌にバスタオルを巻いたままのアスカがゆっくりと振り向く。シンジの目線の先、アスカの手には、しっかりと切り分けられたケーキが載った皿があった。「何で食べちゃうんだよ!」「何でって、いかにも食べて下さいって感じで置いてあったじゃない?」「アスカ、それはシュガーケーキだよ!」「それくらい知ってるわよ。でも、今みんなで食べたっていいでしょ?」そう答えるアスカに対し、珍しくシンジが反論する。「よくないよ!シュガーケーキって、食べる前に見て楽しむものだろ? このケーキは僕とミライとで、アスカの母の日用に作ったケーキなんだよ!」「えっ!」シンジが怒るのも少しは理解出来る。そのケーキは、シンジとミライがアスカのためにこっそり夜なべをして一緒に作ってきたケーキだった。もちろん最終的には食べてもらうのだが、母の日当日までは飾っおいて、目で楽しんでもらいたかったのだ。「味だけじゃなくて綺麗に作れたことを褒めてあげて欲しかったのに! ミライの気持ちを踏みにじるようなこと、するなよ!」娘のミライが二人に気を使う。「ママが喜んでくれれば私はそれで嬉しいし、母の日にはお花でも買ってまた飾ればいいんだし…」しかし、シンジの怒りは収まらない。当のアスカも、今初めて事情を知り申し訳なく思っていたのだが、こうなっては後にはひけない。むきになるシンジに見せ付けるかのようにケーキを食べる。「おいし~!ミライ、上手に出来てたわよ。ありがとうね!二人で一緒に食べましょ。パパはいらないみたいだし」「う、うん、ママ」ミライは複雑な表情でシンジの顔を窺い、最終的にアスカの言葉に従う。こういう時のアスカに逆らったら、ことが更にこじれるのは目に見えているからだ。「アスカのわからず屋!」プンプンしながらシンジは寝室に篭もってしまった。
…それ以来、二人は冷戦状態へと突入したのであった。
「「「ごちそうさまでした」」」夕食を終えた三人。「だけど、あんなことで喧嘩するなんて、二人ともいつまでもお熱いんだね。新婚さんみたい」気まずい雰囲気を変えようと、片付けを手伝いながらミライが軽口を叩く。「「ち、違うってば!そんなんじゃないって!!」」思わずハモってしまったシンジとアスカは、顔を赤らめながら互いにそっぽを向く。「じゃあ、私はお風呂に入ってくるからちゃんと仲直りするんだよ~」そんな二人の様子にちょっと微笑みを隠せなかったミライは、いつものように関係修復を願いながらダイニングルームを出て行った。
ミライがお風呂に行ってから、二人はリビングでテレビを見始めた。…お互いにいつもより少し距離をとりながら。テレビからは漫才のツッコミや観客の楽しそうな笑い声が聞こえていたが、もちろん二人の耳にはほとんど届いてはいなかった。シンジとアスカはそれぞれ三日前のことに思いを馳せていた。
(今回は絶対に6:4くらいでアスカが悪いよ。 僕やミライの気持ちを少しくらい汲み取ってくれたっていいじゃないか… …でも、ちょっと感情的になりすぎたかな? いつまでもこんな状態でいたくない。やっぱり謝るべきところは謝ろう…)
(アタシのために作ってくれたケーキだったんだから、アタシの好きにしたっていいじゃない… なのに、なんなのよ、あの態度。バッカみたい… でも、ミライには悪いことしちゃったな… それに、いつまでもシンジと会話すら出来ないなんて、イヤだ。 あー、アタシらしくない。でも、やっぱりちょっと寂しいし悲しい…)
冷静になって考えてみると、だんだんと後悔や反省の念がふつふつと沸いてくる。少し話し合いをしようと、ほぼ同時に互いの顔を覗き込んだその瞬間。
突然、電気がすべて消え、部屋が真っ暗になった。
「ちょっと、なんなのよこれー!どうなっちゃった訳?」「あっ… そういえば、今日停電になるって回覧板が来てたような…」「なんでそういう大事なこと言わないのよ!」「ア、アスカが聞かないから悪いんだろ!」突然の出来事に、あたふたする二人。ずっと喧嘩していたことなど忘れ、共同で対策を練り始める。「とにかく明かりをどうにかしなきゃ!」「たしか寝室に置いてある避難用のリュックに懐中電灯があったわよね?」壁やテーブルなどにあちこちぶつかりながら寝室へと向かう。「痛!ちょっと、しっかり歩きなさいよ!バカシンジ!」「アスカ、そんなに引っ張らないでよ。あともうちょっとだから」やっぱり小競り合いはしているものの、ちゃっかりシンジのシャツの裾を握り締めているアスカ。暗闇は苦手なようだ。どうにか寝室まで辿り着いた二人。幸い、寝室のカーテンが開いていたため、仄かな月明かりを頼りにすぐにリュックを見つけることは出来た。「この中にあるはずなんだけど…」「何でこんなにいっぱいモノが入ってるのよ!とりあえず全部出すわよ!」リュックをひっくり返すと中から様々な物が飛び出す。その中からようやく懐中電灯を見つけ出す。「あった!」「これでひとまず安心ね。しっかし、いろんなものが入ってたわね…」懐中電灯の光に照らし出されたその先には、本当に様々なものが散乱していた。食糧はもちろんのこと、ぬいぐるみやS-DAT、旅先で二人で買った置物…「「あっ!」」その中でも、二人は思わぬものを見つけて思わず声をあげる。それは、二人が中学生の頃につけていた交換日記だった。懐かしさを覚え、ページをめくってゆく。そして、あるページで二人の手が止まった。…お互いの気持ちを綴って送り合った詩が書かれたページだった。シンジとアスカは寄り添いながら、まじまじとそれを読み始めた。
○月×日 to アスカ
冷たく冷やした小さなグラスに細かく砕いた氷を入れて作ったばかりの紅茶を注ぐあっという間にグラスの氷は音もたてずに溶けてゆくグラスの周りに水滴を残し跡形もなく溶けてゆくいてつくように冷たく凍えわだかまりを抱えた僕の心はさっきまでの氷と同じ?今はまだ何にも溶かされることのない少し汗をかいただけの氷と同じ?アスカの髪に少しでも触れたならアスカの愛に少しでも触れられたなら固く閉ざされ冷えきった僕の心はきっと溶かされるかもしれないグラスの氷のように…あの紅茶と同じ 暖かで綺麗なアスカなら…きっと…
「キャーハッハッハ!…そういえばアンタ、くっさい詩を書いてたわね~」「う、うるさいな、アスカ!そういうアスカだって…」突っ込まれたシンジはアスカから日記を奪い、次のページをめくる。
○月△日 to シンジ
氷を浮かべた紅茶のグラスにほんの少しのレモンを搾るアタシの髪と全く同じ赤茶色の綺麗な紅茶は瞬時に反応してしまう余すところなく金色にあっという間に染まってしまう今のアタシは赤茶色の紅茶?今はまだ何にも染まらず砂糖で少し甘いだけの紅茶?シンジの身体に少しでも触れたならシンジの愛に少しでも触れられたならアタシは金色に染まってしまうかもしれないレモンを絞った紅茶のように…あのレモンと同じ 純粋で優しいシンジなら…きっと…
「ハハハ!ほら、アスカだって同じじゃないか!」「ちょ、ちょっとシンジ、お願いだから見ないでよ~!」そう言いながら日記の奪い合いをする二人。しかし、何故避難用のリュックにこんなものが入っていたのだろうか?無論、シンジとアスカにとって失う訳にはいかない、かけがえのない大事な『思い出の品』だったからだ。当時の様々な記憶を辿るにつれて、互いを大切に思う気持ちも蘇り、先日までの刺々した気持ちはいつの間にかに二人から消え去っていた。そして、どちらともなくぎゅっと抱きしめ合うのだった。「バカシンジ…(…本当はアタシもさみしかったんだから)」「アスカ… 大人気ない態度しちゃってゴメン(…僕だって寂しかったよ)」「もういいから… 今は何も言わないで」しばらく無言でお互いを愛しみ抱き合いながら仲直りのキスをする。
そんな時に。突然明かりが灯り、再び周囲が明るくなる。ハッとした二人の視線の先には、ニヤニヤ顔のミライがドアの前に立っていた。「パパ、ママ、お取り込み中ゴメーン。ドライヤー使ってたらブレーカーが落ちちゃったみたい」「えっ、停電なんじゃ…」アスカを抱きしめたままのシンジが素っ頓狂な声をあげる。「パパー、停電の日は明日だよー」ニヤニヤしたままのミライが二人に近づき、傍に置いてあった日記を手に取る。「仲直り出来たみたいでよかった!あれ?このノート、何?」「うわあああぁぁぁ!!見るな見るな見るなぁ!!!」「ダメェェェ!!ミライ、返してぇ!!!」ミライは日記を持ったまま、笑いながら二人から逃げ回る。
…ミライが二人の仲直りのためにブレーカーを故意に落としたのかどうかは、彼女しか知る由もない。
しかしながら、かくして碇家に笑顔と平和が戻ったのでした。
終わり
このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー と 利用規約 が適用されます。
1文字以上入力してください
本文は少なくとも1文字以上必要です。
1文字以上入力してください。
下から選んでください: